latest-news’s diary

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死の予感が、どういう。

死の予感が、どういう
感覚であるかを
いうのはむずかしい。
 「関門海峡、西流れ開始は午前5時30分と……」。福岡地方でNHKラジオを聞く者は、午後7時少し前の「あすの暦」のコーナーでこんなアナウンスに接する。
 船舶には大事な情報だ。「ひ」の字に似る海峡では1日2度ずつある潮の満ち引きの際に、独特の海流が生じる。
 満潮時には瀬戸内海の周防灘から日本海の響灘に向かう西流れ、干潮時には逆の東流れである。二つの灘の潮位差もあって、流速は最大で時速17キロメートルにもなる。
 北九州市の和布刈(めかり)神社の近くから見ると、緑がかった海面がうねりつつ流れ行くさまがはっきりわかる。
 1944年、35歳の一兵卒の「私」は東京・品川から鉄路、門司まで運ばれ、輸送船に乗った。フィリピンへ赴くのである。
 遠方からかけつけた妻と2人の子とは品川駅近くで短時間、別れを交わしただけだった。「先に涙を流したのは私である」の1行が胸に染みる。妻は夫に出来たての「千人針」を差し出していた。
 しかし、作中で「私」は、無事で帰ってきてとの願いがこもったその品を、門司の海へと投じてしまう。
 「……私は前線で一人死ぬのに、私の愛する者の影響を蒙(こうむ)りたくなかったといえようか」。フランス文学の研究者として、恋愛の高揚も、退廃の魅惑も知った中年男を、国家は有無をいわさず戦場へ押し出す。悔しさや焦燥、諦念が作品の端々ににじむ。
 「私」を載せた船はやがてともづなを解き、当初は周防灘へ向かった後、いったん停止、今度は響灘へ針路を変えた。その先の戦地での苦難は別の作品に詳しい。
 後年、大岡は埴谷雄高とのロング対談「二つの同時代史」で舞台裏を明かした。千人針の一件について「あれはフィクションだよ。三島由紀夫に見破られた」。
 大作「レイテ戦記」を仕上げ、自宅で打ち上げをした際、水上勉がやはり同じことを聞いてきたという。
 「うちのやつが『あたし、千人針なんか作りません』て言っちまいやがった」
 しかし、無意味な死を受け入れざるをえない一知識人の抵抗の表現として忘れがたい。作家的想像力の産物であろう。
 個人の尊厳を飲み込む国家的暴力への異議がたぎる。(編集委員 毛糠秀樹)
 おおおか・しょうへい(1909~88) 東京市牛込区(現在の東京都新宿区)生まれ。10代で小林秀雄中原中也と知り合う。京都帝大でフランス文学を専攻。会社勤務の傍らスタンダールを研究した。
 44年に召集され、35歳でフィリピンへ。翌年、米軍の上陸で捕虜になり、12月に帰国した。
 戦地での体験を基に「俘虜記」「野火」などを発表。50年の「武蔵野夫人」はベストセラーとなった。
 「レイテ戦記」や「事件」など旺盛な執筆活動を続け、井上靖江藤淳らとの論争も話題になった。
 晩年もエッセー「成城だより」などを執筆。映画や数学などにも関心を持ち続けた。(作品の引用は集英社文庫

うーん読んだけどよく意味わかん。

出典:2017/11/25 日本経済新聞